2011年2月11日金曜日

私的日記 その二

小学生になっても、
保育園のメンバーが全員そのまま
繰り上がっただけで、増減は無かった。

なので、そう、とんでもなく別環境に入った
という感触はなかった。

しかし、
勉強というものが始まる。
テストというものが始まる。

算数の最初のテストは
ライオンの数を数えたり、
猫の数を数えたりするだけの、
バカにしきった内容であった為、
これにも随分と驚いたものであった。

結果は当然満点であったが、
友人達も当然、皆満点である。

しかし、答案を自宅へ持ち帰ると、
それを見た母親が、
「良太は天才かもしれない!!」と
騒ぎ出していた。

僕は、親バカにも程があるなと思いつつ、
母親の嬉しそうな姿をみて
嬉しくなったものであった。


それからの成績は中の中辺りであった。
親の教えが「勉強は二の次、友達と遊べ」
であった為、理数は満点でも、
勉強が必要な科目である国語社会が
まるでダメなのであった。


頭はその程度であったが、僕は元来体が弱く、
喘息ももっているため、
運動すると呼吸困難になってしまい、
続かない。

風邪をひいても喘息の発作が起こり、
狭くなった器官がヒューヒューと音を立てて、
本当に苦しいのである、

風邪をひく毎に、この様な状態になっていたが、
それを見て、父親はいつも
「風邪ぐらいでヒーヒー言って情けない。
いつもマラソンでも息が上がっていて
走れなくなる。
根性の無いやつだ。」
と言っていた。

僕は、呼吸困難になりながらも、
この言葉を聞いて、
大人になったら、こんなに苦しい「風邪」も、
根性で平気になるのか。
マラソンは走れないけれど、
それ以外の事は、限界以上にでも我慢して、
根性をつけよう。

と決心したのであった。
ただ、「風邪」といっても、僕が経験していた、
死をも予感させる呼吸困難を伴う風邪と、
父親が経験していたものが違っていたのであるが。

そうして、それまで以上に
あらゆる事を我慢しつつ、
生活をしていくようになる。


そして、小学校高学年の頃、
夜に頭痛がしてきた為、
頭が痛いと訴えたところ、
父親がバファリンを僕に飲ませた。

これがダメで、
僕はアスピリン系の薬品アレルギーであった為、
服薬後、これまでに経験した事のない
最大級の呼吸困難がやってきた。
もう、ほぼ完全に呼吸ができない。

脳みそが痛くなり、それでもなお呼吸ができない。

僕は完全に「死」を覚悟した。

・・・・。
しかし、発作はほんの少し和らぎ、
まだ、相当苦しいものの、
ギリギリ動けるようになったので
夜間診療に行くと、
「吸入しましょう」と言われ、
霧状にした薬品を吸いこまされた。

その瞬間、一瞬でいつもの苦しくない状態に
復活した。
この様な薬があるのか、
自宅で使えるものは無いのかと思ったが、
どうやらあるらしい。

もっと早くに知っていれば・・・。
でもこれで風邪は怖くなくなるぞ。
などど考えていた。


その様な事があってから、
「もう僕はこれで死んでいたかもしれない。
じゃあこれからはおまけの人生だ!
明日終わっても後悔しない、
毎日楽しんで生活しよう!」
と考えたのと同時に、
「明日死ぬと宣告されようが、
そんなの気にせず諦めず、
生活をないがしろにせず、
しっかりと自分を持とう。
明日死ぬと言われても、
なにも投げ出さず、
そのままの自分で居よう。」
というような考えが心に染み付きだした。


今考えると、我ながらに
根性のある、頑張り少年だと思う。


しかし、当時の僕は、
まだまだ「根性が足りない。」と、
自分を責め続けるのであった。


次回、中学生期。
お楽しみに。


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